〇川越市立博物館編『第41回企画展 古代入間郡の役所と道』、川越市立博物館、2015年
古代入間郡の中心となる役所、入間郡家(いるまぐうけ)所在地の最有力候補地は、霞ヶ関遺跡です。霞ヶ関駅西口を東へ約400メートルのところに入間郡家があったと考えられています。入間郡家は上戸日枝神社(かつての出雲伊波比社)や牛塚古墳と関連があったと指摘されています。また、古代の道、東山道武蔵路が的場の八幡前若宮遺跡から的場駅のすぐ西側を北上していたことも明らかになってきています。八幡前若宮遺跡は、武蔵国府(東京都府中市)から3番目の駅家が置かれた場所でした。
古代の入間郡家については、「博物館だより」第73号および第75号も併せてご覧ください。
〇川越市立博物館編『第42回企画展 妖怪ー闇にひそむ不可思議なるものー』、川越市立博物館、2015年、p.60
河童の伝承として「河童の伊勢詣」が掲載されています。
〇『博物館だより』第15号、川越市立博物館、1995年、p.6~p.7
「板碑の立つ前方後円墳~牛塚中世墳墓跡について~」
的場にある古代の前方後円墳・牛塚古墳の上には、中世墓があったことが確認されています。「古墳の上に墓が盛んに作られ始めた14世紀前半は、鎌倉幕府が滅亡し旧来の御家人たちが再編成されてゆく激動の時代」でした。
〇『博物館だより』第26号、川越市立博物館、1999年、p.2~p.3
「古代川越のまつり」
伊勢原町周辺にあった御伊勢原遺跡は、古墳時代のムラの跡です。「御伊勢原遺跡では、住居跡の外のムラの一画」で石製模造品が見つかっています。このことが「古墳時代のムラの『まつり』を考える上での新しい手がかり」だといわれています。
〇『博物館だより』第30号、川越市立博物館、2000年、p.6
「常設展示室から 牛塚古墳出土 銀装刀子」
銀装刀子(ぎんそうとうす)は、的場の牛塚古墳で出土しました。一緒に出土した指輪が朝鮮半島系のものであるため、渡来系の豪族のものであった可能性が指摘されています。
〇『博物館だより』第34号、川越市立博物館、2001年、p.6
「芳地戸のふせぎ」
芳地戸(ほうじど)のふせぎは、笠幡の芳地戸地区で春の彼岸の中日に行われる行事です。「害虫や疫病などの災いが地区内に入らないように、また入ってしまったものがすぐに出て行くようにと願う『ふせぎ』」が行われています。
〇『博物館だより』第73号、川越市立博物館、2014年、p.1~p.4
「伝えられた歴史文化―『初雁』の由来から紐解く―」
近年の調査研究により、霞ヶ関遺跡(霞ヶ関駅の東北部、上戸新町・上戸・的場地域)には、「飛鳥時代から平安時代にかけて、古代入間郡の役所『入間郡家(いるまぐうけ)』が置かれていたことが明らかになっ」てきています。川越地域の古代における中心地は入間川左岸の名細・霞ヶ関地域でしたが、やがて中心地は入間川右岸(川越城を中心とした地域)に移っていったと考えられています。
〇『博物館だより』第75号、川越市立博物館、2015年、p.1~p.4
「『大家』墨書土器から川越の古代史を考える―入間川を挟む二つの地域のつながり―」
「入間郡の場合、当初郡家(ぐうけ)は大家郷に置かれ、後に大家郷を割いて郡家郷が設置され、郡家が移動した」とする説が有力であるといいます。大家郷は仙波台地上であると考えられています。つまり、霞ヶ関遺跡にあったとされる入間郡家(いるまぐうけ)も、もともとは入間川右岸を拠点とした豪族の勢力下にあった地域だと考えられるのです。
なお、「博物館だより」第73号および第75号の内容については、川越市立博物館編『第41回企画展 古代入間郡の役所と道』、川越市立博物館、2015年にも紹介されています。
〇川越市総務部市史編纂室編『川越市史第一巻原始古代編』、川越市、1972年
叙述編
第二章 原始時代
第2節 縄文時代
・霞ヶ関遺跡の記述(p.32~p.39、p.47~p.51)
・縄文・弥生時代の遺跡一覧(p.73~p.75)
第三章 古代
第1節 弥生時代
・霞ヶ関遺跡の記述(p.88~p.93)
第2節 古墳時代
・古墳~平安時代の遺跡一覧(p.106~p.111)
・霞ヶ関遺跡の記述(p.111~p.119)
・牛塚古墳等、的場の五基の大形墳の記述(p.136~p.141)
第3節 奈良・平安時代
・霞ヶ関遺跡の記述(p.158~p.164)
・入間郡の六郷のうち安刀郷の記述(p.174)
・三芳野の里の記述(p.180~p.184)
資料編
・牛塚古墳(p.365~p.434)
・牛塚古墳の埋蔵物の写真(p.563~p.589)
〇川越市庶務課市史編纂室『川越市史第二巻中世編』、川越市、1985年
・河越荘の記述(p.306~p.324)
河越荘は寄進地系荘園であり、後白河法皇・新日吉神社が本家・領家にあたります。その範囲には的場も含まれていました。
・「小田原衆所領役帳」の記述(p.566~p.574)
「小田原衆所領役帳」は後北条氏家臣団の諸役負担の規準を示したものです。ここに的場も登場します。
・尾崎神社(p.602)
・的場山法城寺(p.627~p.628)
・延命寺(p.629)
〇川越市庶務課市史編纂室編『川越市史第二巻中世編別巻板碑』、川越市、1985年
本文編
第二章 板碑と庶民
第二節 民間信仰板碑
・霞ヶ関関係の板碑(p.40~p.43)
第四章 地区別の板碑
Ⅷ 霞ヶ関地区(p.99~p.117)
※霞ヶ関地区は板碑の密度が濃いのが特徴です。
川越市板碑所在地一覧表
・霞ヶ関地区(p.156~p.162)
図録編
・霞ヶ関関係の板碑(p.183~p.501)
※多数の板碑の写真が掲載されています。
〇川越市庶務課市史編纂室『川越市史第三巻近世編』、川越市、1983年
・徳川家綱が松平輝綱に与えた領地判物・朱印状に的場村、笠幡村の記述(p.226~p.229)
・川越市内寺子屋一覧(p.487~p.493)
笠幡 延命寺(秀尊)、(発知金八)、法城寺(霊峰智秀・提宋素全)、(飯島金左衛門)
的場 (大野義信)
安比奈新田 (田中弥右衛門)
※管理者注)法城寺は笠幡ではなく、的場である。
・笠幡村の発知金八の墓誌の記述(p.502)
・寺子屋の記述(p.510)
笠幡 法城寺の霊峰智秀、延命寺の秀尊、飯島金左衛門、発知金八
的場 大野義信
安比奈新田 田中弥右衛門
〇川越市総務部市史編纂室編『川越市史資料編近世Ⅲ』、川越市、1972年
・解説(p.Ⅷ)
発智芳太郎家文書
発智家は川越領笠幡村の名主をつとめ、また近世中後期には豪農として知られた。同家文書は検地帳を除くと多くは散佚したものとおもわれる。本編に収録した「出入一件」「笠幡村出入一条」は、小前百姓数十人惣代が、村名主・組頭を相手に訴訟に及んだ村方騒動の史料である。いずれも、事件後数年を経た万延二年(一八六一)に清水堂朧谷の手によって筆写されたものである。「願書返答書済口証文写并七人返答書」は、「笠幡村出入一条」と同じ安政三年(一八五六)の事件をあつかい、内容も重複するものが多い。両者を比較すると、若干の字句の相違がみられるが、本編では分量の制約から、重複しない返答書一通をのせた。
・発智家文書(p.647~p.686)
1 笠幡村出入一件控 嘉永四年(p.647~p.668)
2 笠幡村出入一件控 安政三年(p.668~p.686)
第5章 川越市域における農業経済の展開
第一節 明治中期の農業構造(p.573~p.581)
・農村における生産物構成と商品化の動向
・霞ヶ関村における農工生産の状況
・金肥の購入と利用 農家の構成
明治中期の霞ヶ関村の農村の経済について記述されています。
〇川越市総務部市史編纂室『川越市史第五巻現代編Ⅰ』、川越市、1972年
霞ヶ関村の農地改革についての記述があります。
第3編 経済
第1章 川越市の農地改革 霞ヶ関村(p.402~p.407)
〇大護八郎『市制六十周年記念 川越の歴史』、川越市、1982年
霞ヶ関の歴史を知るためには、川越の歴史を理解する必要があります。この本では、平易な言葉で川越の歴史が記述されています。
霞ヶ関に言及されているのは、以下のところです。
・川越に稲作がはじまった頃
p.25~p.27「霞ヶ関の大きな村」(弥生時代後期の霞ヶ関遺跡の記述)
・強い豪族が現われた頃
p.28~p.31「霞ヶ関に見るムラの発展」(古墳時代の霞ヶ関遺跡の記述)
p.38「古墳をきずいた人々」(牛塚古墳の記述)
p.48「三芳野の里」(的場が三芳野の比定地といわれているとの記述)
・河越氏の頃
p.54~p.56「秩父からやってきた河越氏」(河越氏が進出できたのは、上戸・的場あたりの入間川手前までか?)
p.59「仙波の無量寿寺と上戸の常楽寺」(平安時代の遺跡は霞ヶ関でも発掘されている)
・後北条氏の河越支配の頃
p.130「後北条氏の関東支配と河越」(川越夜戦後、河越城の城将に大道寺政繁が任じられたが、その領地は狭かった。寺井・的場の領主は小田原衆の山中氏だった)
・大川越市への道
p.330「市政の発展」(大川越市の誕生。霞ヶ関村も川越市に加わった)
p.343「文化財都市川越」(芳地戸の尾崎神社の「ふせぎ」の記述)
〇川越の人物誌編集委員会『川越の人物誌 第1集』、川越市教育委員会、1983年
p.114~p.116 「42発智庄平」
発智庄平(ほっち しょうへい)(1864~1936)は、笠幡の名主・発智家に養子に入り、やがて地域社会のリーダーとして活躍します。農業の振興、銀行の経営などの殖産を行うとともに、青少年の教育にも力を注ぎました。また、廃娼運動、埼玉育児院の運営などの社会運動をすすめていったことも特筆されます。さらに、東京オリンピック2020の会場となった霞ヶ関カンツリー倶楽部の設立にも尽力しました。
〇川越の人物誌編集委員会『川越の人物誌 第2集』、川越市教育委員会、1986年
p.115~p.116 「35岸 彌吉」
岸 彌吉(きし やきち)(1865~1927)は、笹井村(現・狭山市)に生まれましたが、24歳で霞ヶ関村的場の岸家に養子に入ります。当主となると、金融業を開業して、やがて的場銀行を設立しました。その後は狭山茶振興に尽力するとともに政治の道にすすみ、県会議員としても活躍しました。
p.117~p.119 「36三島通良」
三島通良(みしま みちよし)(1866~1925)は、笠幡村に生まれ、帝国大学大学院を卒業した医学博士ですが、文部省の学校衛生主事、学校衛生顧問会議主事として、日本の学校保健の拡充に尽力し、学校医制度の礎を築きました。「わが国学校衛生の創始者」と称されています。
p.142~p.144 「44笠松仙英」
笠松仙英(かさまつ せんえい)(1884~1959)は、入西村(現・坂戸市)に生まれ、川越市喜多町の広済寺の住職となりました。やがて埼玉盲学校(現・埼玉県立特別支援学校 塙保己一学園)の初代校長となり、厳しい資金不足のなか、学校の運営に奔走しました。笠松仙英は僧侶でありながら、視覚障害者の教育に生涯をささげました。
〇川越の人物誌編集委員会『川越の人物誌 第3集』、川越市教育委員会、1994年
p.25~p.27 「9小谷野ひめ」
小谷野ひめ(こやの ひめ)(18世紀初期)は、三味線を弾き、唄を歌いながら門付けをする盲女、瞽女(ごぜ)でした。安比奈新田と柏原村(現・狭山市)にかかる細い橋から瞽女が転落死した事故をきっかけに、小谷野ひめらが資金を貯めて石橋を架けました。その瞽女橋も、いまはもうありません。
p.112~p.116 「30河東田ヨシ」
河東田ヨシ(かとうだ よし)(1897~1976)は、北海道夕張で生まれ、小学校の教員をしているときに河東田教美と知り合い、結婚して朝鮮に渡りました。やがて内地に帰ると、教美は発智庄平のすすめで、困難な運営に直面していた埼玉育児院の理事長兼院長になります。その後も苦労の連続であったが、ヨシは教美をさせ続けます。1949(昭和24)年に教美が亡くなると、ヨシが理事長兼院長になります。ヨシは500人を超える子どもたちに「ママさん」と呼ばれ、子どもたちの成長を見守っていきました。
〇埼玉県立川越高等女学校編『川越地方郷土研究』、国書刊行会、1982年
『川越地方郷土研究』は、埼玉県立川越高等女学校校友会郷土研究室編『川越地方郷土研究』、1938年 を復刊したものです。当時の埼玉県立川越高等女学校(現・埼玉県立川越女子高等学校)の教員と生徒が「郷土文化や風習などを多方面にわたって足と目と耳で調査収集し、まとめたもの」(「復刊にあたって」『川越地方郷土研究』)です。
〔年中行事篇〕
・正月行事
p.56 年神様
「トシガミダナ (中略)霞關村では新しい堅木の薪を四ツ割にして七本を新しい縄に結はえて年神棚を作りアキノカタに飾る」
p.58 年越し
「ヒブセ 霞關村的場では同じく大晦日に圍爐裏の中央に握り飯をくべて燒く」
p.63 小正月、其の他
「アヅキガユ (中略)霞關村では小豆粥を食べると毒虫に刺されないといふ」
p.64 小正月、其の他
「サクノハナ 霞關村では十四日小楢の枝に團子をつける。これをサクノハナといふ。一般にはダンゴサシ、ナリキと稱してゐる」
p.66 小正月、其の他
「ドンドヤキ (中略) 霞關村では七日の晩にするが、この時子供達が小さな小屋を建て、その小屋を燃してしまふ。その火で正月餅を燒いて食べる」
・田植とその行事
p.77~p.78 田うなひ
「ミヅアンバイ 田の水の管理者を水案配といふ(中略)霞關村ではミヅマハリ(水廻り)叉はタマハリ(田廻り)ともいふ。この水案配には作大將がなる。作大將が田植の管理者である」
p.79 苗開き
「サンフジサンニチナヘ 川越附近では種ふりをしてから三十三日目を三十三日苗とて苗立てをする。これは代田の隅に半坪位態々植ゑるのである。この後は何日に植ゑてもよいといふ。霞關村では早乙女がナヘダテに代田の水口に三束の苗を植ゑる。夜は荒神様に燈明をあげ米の飯の御馳走がある」
p.79 苗開き
「人形 名稱は忘れてゐるようであるが古谷村では苗代の餘つた苗を乾して、それで人形を結ぶ。霞關村では今でもこれに似たものを作つてゐる」
p.80~p.81 田植
「テンデンメシ 仝じく馬宮村では田植時の食事は忙しいので各自勝手に食事をするのでテンデンメいふ〔ママ〕。霞關村では田植に赤飯をふかす」
・盆行事
p.96 盆供
「ブツシヨウブクロ 佛餉袋である。漂木綿の袋で寺にてこれを保管してゐて檀家に渡すのである。檀家ではこの袋に米を入れて盆供とする。多くの寺から盆供を持参すると碾茶を小さな袋に入れて出す。この茶は盆に供へるお茶である。霞關村では碾茶の外に團子七箇を呉れる。これは盆供を持参した晩、家中で食べるのである」
p.105 盆禮
「ボンレイ 盆のうちに親戚又は組合の人がお棚まゐりに、分家は本家に組合は組合同志互にゆく。霞關村では十五日に水手向けに組合の人が行く。これを盆禮と稱してゐる。持参品は多く麺類に唐茄子である」
・亥の子祭
p.113 敲き合ひ
「十日ン夜には部落と部落との間にて敲き合ひとて喧嘩をする。霞關村ではその夜は特に大きな藁鐵砲を作つて神社の境内に集り、他部落と争ひ、鐵砲を取られた方が負けとなる」
〔産育・婚姻・送葬篇〕
・送葬習俗
p.171 訃報
「フタリヅカイ 山田村では親族その他に死亡のサタ(沙汰)をする人をヒキヤク(飛脚)叉は二人使ひという。(中略)霞關村では訃報を受けた家では、この飛脚に對して必ずオシノギ(粗末な食事)を出すことになってゐる」
p.178 でたち
「デタチ 出棺のことをデダチ〔ママ〕といひ、サモト(客間の縁側)から新しい草履を座敷から穿いて出るのである。(中略)霞關村では一杯の饂飩を一本箸で大勢にてつゝきこして食べるのである。何れにせよ死者との共食と思はれる」
p.182 庭弔ひと埋葬
「ツヂロウ 葬列の先頭には石戸村では松明を點してゆく。提灯持が先導するのは何處も同じである。これとは異つて霞關村では死後、六道の辻とて闇黒で道の分らぬ所があるとて墓へゆく途中の道角に、竹を六尺位の高さに切り、巾五分位に裂き、その先に蝋燭を立てた辻蝋を挿してゆく」
〔完結篇〕
・傳説
p.203 妖怪 童河〔ママ〕の伊勢参り 入間郡名細村
「名細村の小畔川の小次郎と、伊草村の袈裟坊と三芳野村小沼のかじ坊の三人が伊勢参りをした。金遣ひが荒いので金をよく見たら田螺の蓋であったといふ」
・歌謡
p.246 お手玉唄
どんどんどんがらつか柿のたね
落合橋の先生は
お米の御飯にとゝ合はして
お菜はなつぱに大根汁
(入間郡霞ケ關村)
・衣服に關する方言
p.255
「シリバリヨリ 常着で仕事をする時のミゴシラヘをいふ。ヲトコバシヨリとはシリハサミであつて帯のところへ着物の後をつまみあげておくのをいふ。それに對してヲンナハシヨリとは裾を腰にまくことをいふ。入間郡三芳村。男はしよりを入間郡霞關村ではヲツサンバシヨリといふ」
〇川越市総務部市史編纂室編『川越市史民俗編』、川越市、1968年
p.10、p.12、p.18、p.19、p.21、p.29、p.31、p.32、p.33、p.44、p.52~p.53、p.58、p.102、p.109~p.110、p.113~p.114、p.172、p.189に旧霞ヶ関村に関する記述がある。また、p.129には旧名細村の「かっぱの伊勢参り」の伝説が掲載されている。なお、旧霞ヶ関村についての記述は『川越地方郷土研究』を資料としているため、その内容は『川越地方郷土研究』とほぼ同じである。
p.483~p.484 「笠幡の獅子舞」に関する記述あり。
〇川越市博物館編『第15回企画展図録 悪疫退散・五穀豊穣ー川越の獅子舞』、川越市博物館、1999年
・「25.的場の獅子舞」p.50 法城寺の獅子舞
・「26.笠幡の獅子舞」p.51 三島日光神社の獅子舞
〇新井博『埼玉県の民話と伝説(川越編)』、有峰書店、1977年
・名細地区
「河童の伊勢詣り」p.115~p.116
・霞ケ関地区
「的場の天神社」p.117~p.118
「的場の片葉の葦」p.118~p.119
〇川越市教育委員会社会教育課編『川越の伝説』、川越市教育委員会、1981年
・霞ケ関
「ゴゼ橋」p.110~p.111
「尾崎神社のご神木」p.112~p.113
・名細
「かっぱの伊勢まいり」p.126~p.127
〇川越市教育委員会社会教育課編『続「川越の伝説」』、川越市教育委員会、1984年
・霞ケ関
「的場六十六塚」p.86~p.87
「ひょうたん池」p.88~p.89
「笠幡のだいだらぼっち」p.90~p.91
「笠幡のめずらしい地名のはなし(その一)」p.92~p.93
「笠幡のめずらしい地名のはなし(その二)」p.94~p.95
「榎堂のお地蔵さん」p.96~p.97
「こんぴらさまの天狗」p.98~p.99
「キツネに化かされたはなし」p.100~p.101
「小畔川のはなし」p.102~p.103
「夜泣き地蔵さん」p.104~p.105
〇漫画/しいや・みつのり 脚本/花井泰子『まんが 川越のむかしばなし 第1巻』
小江戸出版会、1997年
・パート8
「河童のお伊勢まいり(名細)」p.185~p.187
「こんぴらさまの天狗(霞ヶ関)」p.188~p.190
「安比奈新田の瞽女橋(霞ヶ関)」p.191~p.194
「夜泣き地蔵さん(霞ヶ関)」p.195~p.197
〇漫画/しいや・みつのり 脚本/花井泰子『まんが 川越のむかしばなし 第2巻』、
小江戸出版会、1997年
・パート7
「オトウカに化かされた話(霞ガ関)」p.187~p.189
「榎堂の榎地蔵さん(霞ガ関)」p.190~p.193
「石橋のなかった小畔川(霞ガ関)」p.194~p.197
駅を出るとすぐにチューリピアロードというアーケードのついた商店街にはいる。チューリピアロードを抜けると、次はかすみ商店街。東京国際大学という大学の前を通りすぎ、商店街は長く続いている。
「で、この交差点の向こうが角栄(かくえい)商店街だよ」
ゆきくんが道の向こうを指す。角には銀行の建物があり、そこから先は街灯の形が変わっている。下に「KAKUEI」という小さな表示板があるのが見えた。
「角栄商店街は昭和中期にひとつのディベロッパーが計画的に開発した商店街なんだ。だから銀行や郵便局や役所や農協のような生活に必要な施設もひととおりある。幼稚園もあるし、突きあたりには小学校。商店街を中心に、両側に住宅街が広がっていて、ここだけで生活できるように設計されてたんだよね」
川越の旧市街とは雰囲気がかなりちがう。白く、四角く、昭和の団地を思わせる。
「このメインストリートを中心に裏の住宅街も碁盤の目のような区画になってるんだよね。 いまは閉めちゃってる店も多いけど、むかしは休みの日になると遠くから車で買い物に来る人もたくさんいて、たいへんなにぎわいだったんだって」
銀行の横には「楽しいお買物 角栄商店街へようこそ」という、なんとものんびりした雰囲気の看板が立っていて、歩いていくと、八百屋、豆腐屋、肉屋、パン屋、惣菜(そうざい)屋、和菓子屋、文房具屋、小間物(こまもの)屋と、むかしながらの構えの店が次々にあらわれた。
「角栄商店街の建物は、一九六四年に駅に近い側から建てはじめたんだ。だから完全なひとつながりじゃないんだけど、建物と建物のあいだの壁を共有してる部分もある。だから一軒だけ取り壊すことができない。一階が店舗で二階が住居という形の建売だったから、店を閉めてもそのまま二階に住んでる人も多いし、それで当初の形のまま残ってるんだ」
和美さんに僕のいまの状況などを少し話したあと、商店街の先の小畔川という川まで散歩することになった。
商店街のメインストリートはまっすぐ川まで続いている。幼稚園のあたりで店はだいたい終わり、土手が見えてくる。むかしは川のこの左手に小学校があったのだそうだ。もう取り壊されてしまったが、かつて和美さんはそこに通っていたらしい。
「むかしはねえ、校庭で夏祭りをしたりして、にぎやかだったんだけどね」
和美さんが言った。
「この川沿いも春になれば桜が咲くんだよ」
川をはさんで、広々した土地が続いている。河原(かわら)を散歩する人たちの姿も見え、ここが ひとつの世界のように感じられた。
「このへんは小畔川と入間(いるまがわ)川に挟まれて、むかしから肥沃(ひよく)な土地だったんだってさ」
ゆきくんが右側の川の先を指す。
「この先で越辺川(おっぺがわ)と合流して、そのすぐあとに入間川と合流する。だから水害も起こりやすいんだけど、水の恩恵もあったんだ」
ゆきくんの車に乗りこみ、笠幡の方に向かって走りだした。川沿いにえんえんと広々とした土地が続き、ときどきあたらしく開発した住宅地が見えた。
「あ、あそこだよ、尾崎神社」
和美さんが言った。窓の外を見ると、こんもりした緑の一画がある。
「前に駐車場があるから、そこにとめて」
行事もなにもない平日だからだろうか、駐車場はがらんとしていた。神社の周りにも人影はない。ゆきくんが車をとめる。こんなところだっただろうか。こんな大きくて立派なところじゃなかった気がする。あたりを見まわしながら車を降りた。
和美さんが鳥居をくぐる。たしかにまわりには高い木が何本もそびえている。鎮守(ちんじゅ)の森という雰囲気である。
「あそこに小さい社(やしろ)があるよ。まずこっちから見ていこう」
ゆきくんは和美さんが指したのと反対の右側の小道を進む。左手に小さな鳥居があり、 正面に細長い建物があった。赤い屋根で、前には紙垂(しで)がぶら下がり、稲荷(いなり)のきつねの石像が二体ならんでいた。
「摂社(せっしゃ)じゃない? 小さな社が並んでるんだと思う」
和美さんが言った。川越氷川(ひかわ)神社の裏にならんでいるのと同じようなものか。氷川神社では小さいがひとつひとつ独立した社だったけれど、ここは集合住宅のようになっていて、 建物のなかが均等に区切られ、小さな社がはいっていた。
「まあ、生糸(きいと)産業も、相場の読みちがいで失敗して没落、とか、いろいろあったみたいだけど。この近くにある霞ヶ関カンツリー倶楽部(くらぶ)の開発も、もともとは生糸での大損を取り戻す目的もあったとか」
「生糸での大損? そうだったんだ」
ゆきくんが訊いた。
「いまは由緒ある名門ゴルフ場って言われているけど、あそこの歴史もなかなかおもしろいものなんだよね。ゴルフ場を開発したのは、發智庄平(ほっちしょうへい)っていう当時の地元の篤志家(とくしか)で、この發智庄平とともに生糸貿易事業をおこなっていたのが、現在の星野(ほしの)リゾート創業者・星野国次(くにじ)の弟、星野正三郎(しょうざぶろう)だったんだ」
「星野リゾート? あの有名な?」
和美さんが目を丸くする。
「そう。当時は軽井沢(かるいざわ)の星野温泉旅館。正三郎は長野県佐久(さく)市にある実家の生糸業を継いで、發智庄平と横浜に日米生糸株式会社を作った。でも、関東大震災で大量の生糸が焼けてしまって。その損失を取り戻すために、ゴルフ場開発の話を持ちかけたみたいだ」
幸弘さんはゴルフ場開発の話からはじまり、霞ヶ関近辺の歴史について語った。
かつては高麗郡の一部であり、高句麗(こうくり)から移り住んできた渡来人によって、多くの技術がもたらされたこと。平安末期には入間川と小畔川の合流するあたりに「河越館(かわごえやかた)」という建物があり、室町時代まで栄えていたということ。
この家のある鶴ヶ島は、江戸時代に開拓された土地らしい。江戸時代初期、浪人たちの土着帰農のため、幕府は新田開発を進めた。これを土豪(どごう)開発新田といい、現在の鶴ヶ島の上新田(かみしんでん)、中(なか)新田、下(しも)新田という地名はその名残(なごり)なのだそうだ。
第二次大戦後は、復員軍人、引き揚げ者、戦災者、仕事の確保と食糧増産のため、戦時中陸軍坂戸(さかど)飛行場だった富士見地区、赤松林の伐採跡地の鶴ヶ島地区の開拓がはじまる。土がかたく、赤土で作物が育たず、開拓は容易ではなかったらしい。
「まあ、そういう開拓の歴史の上に、いまの我々の生活があるってことなんだよね。若いころはそういう話にはあまり興味がなかったけど、いま聞くと胸に沁(し)みる、っていうか、むかしの人はすごいなあ、と思うんだ」
角栄商店街から東の霞ケ関駅方面にのびる商店街(昭和48年頃)p.5
埼玉育児院(發智庄平宅の敷地内にあった「武揚館」。榎本武揚が謹慎していた建物)(昭和3年頃)p.31
霞ヶ関カンツリー倶楽部 初代クラブハウス(昭和4年)p.34
霞ヶ関カンツリー倶楽部 キャディー採用説明会(昭和10年代)p.34
霞ケ関小学校正門東側の忠魂祠(昭和10年)p.39
国鉄川越線 開通間もないころの的場駅プラットホーム(昭和15年)p.44
国鉄川越線開通当日の的場駅(昭和15年)p.44
国鉄川越線開通を祝う的場駅前の緑門(昭和15年)p.45
的場八坂神社の春祭り「天王祭」(昭和10年代)p.46
笠幡の茅葺き屋根の農家(昭和13年)p.47
笠幡の「馬力」(馬車で荷物を運ぶ職業)(昭和13年頃)p.47
的場の茶摘み風景(昭和16年)p.48
霞ケ関国民学校高等科 戦時下の勤労奉仕(昭和10年代)p.52
笠幡・延命寺の梵鐘供養(梵鐘の供出)(昭和19年)p.53
霞ケ関尋常小学校 玄関前の集合写真(昭和元年頃)p.62
霞ケ関尋常小学校 玄関前の奉安殿(昭和11年)p.65
大川越市の誕生記念の商工カーニバル(昭和30年)p.81
霞ヶ関カンツリー倶楽部でのカナダカップ世界大会開催(昭和32年)p.82
霞ケ関駅前から北方向(昭和38年頃)p.94
霞ケ関駅付近の踏切から的場法城寺方面(昭和38年頃)p.95
10年後の霞ケ関駅付近の踏切から的場法城寺方面(昭和48年頃)p.95
霞ケ関駅西側の踏切(昭和38年頃)p.96
角栄団地の住宅街(昭和39年)p.96
開発途中の角栄団地(昭和40年代)p.97
角栄団地の草創期(昭和40年頃)p.97
角栄商店街 霞ヶ関農協角栄支店(昭和40年頃)p.97
霞ケ関北小学校 開校前の雪景色(昭和40年代)p.98
霞ケ関北小学校の児童 下校風景(昭和45年頃)p.98
角栄団地 魚政(昭和47年頃)p.99
初雁団地と小畔水鳥の郷公園(平成12年)p.107
霞ケ関駅北側の踏切脇 早川商店(昭和40年代)p.116
初雁橋 的場方面から小ヶ谷方面を撮影(昭和30年頃)p.130
国鉄川越線の線路脇 小ヶ谷地区(昭和32年)p.131
台風後の初雁橋 的場方面から小ヶ谷方面を撮影(昭和33年)p.131
新初雁橋と旧初雁橋 小ヶ谷方面から的場方面を撮影(昭和35年頃)p.132
初雁橋の渡り初め式(昭和35年)p.132
安比奈と増形間の仮橋(昭和30年代)p.133
北小畔川と並行する笠幡西部の新道(昭和28年)p.140
霞ケ関駅前の道路舗装工事(昭和47年頃)p.144
国鉄川越線西川越―的場間の入間川鉄橋を走行する貨物列車(昭和40年代)p.144
笠幡駅舎(昭和53年)p.148
笠幡駅前(昭和53年)p.149
霞ケ関駅(昭和40年代)p.151
霞ケ関駅前の親子(昭和42年)p.152
初雁橋前 スキー後の家族写真(昭和33年)p.161
八瀬大橋付近で釣りをする兄妹(昭和42年)p.167
霞ヶ関農協 米の検査(昭和28年)p.188
的場 麦踏み(昭和30年頃)p.189
入間川的場側 砂利取り舟(ガラコン)(昭和25年頃)p.193
東武東上線的場駅―入間川 砂利運搬専用鉄道(トロッコ線)(昭和30年頃)p.193
久星酒造の酒蔵と管理人家族(昭和20年代)p.194
久星産業から独立した埼玉種畜牧場の看板(後の「サイボク」)(昭和20年代)p.194
角栄団地の「団地まつり」(昭和42年)p.212
霞ケ関小学校の木造校舎 講堂は移築された霞ヶ関カンツリー倶楽部のクラブハウス(昭和30年頃)p.230
霞ケ関小学校 学校給食(昭和30年代)p.230
霞ケ関小学校に米軍ジョンソン基地の「モデル飛行スカイホークチーム」来校(昭和40年)p.231
霞ケ関中学校 ラジオ体操(昭和30年頃)p.240~p.241
霞ケ関角栄幼稚園 園児たち(昭和40年代)p.253
霞ケ関北の路地 子どもたち(昭和46年頃)p.267
霞ケ関駅前の喫茶店前 車のボンネットに乗った少年(昭和46年頃)p.268
序(川越市長 加藤瀧二)
祝詞(川越市議会議長 関根初治)
あいさつ(霞ヶ関郷土史研究会代表 中島勝造)
朽原二覚翁碑について(特別寄稿)(新井博)
出征者名簿
戦没者名簿
墓石調査
法城寺寸探(特別寄稿)(小沢薫世)
年代記(中島勝造)
霞ヶ関地区の図(吉沢定次郎)
時代の変化(三ツ木鶴三)
霞ヶ関農協の歴史(堅木清七)
隠ヶ谷戸の由来(新井滝造)
竪穴住居と女堀遺跡記(島村壮)
尾崎神社由来記・俳諧と和歌(三ツ木鶴三)
角栄団地抄録(三ツ木鶴三)
序(川越市文化財保護審議会長 山田勝利、俳誌「風」同人 原田しずえ)
霞ヶ関編
1 笠幡の延命寺
2 倉ヶ谷戸の酒蔵跡 ー久星酒造(株)ー
3 発智庄平翁の事蹟
4 山畑武七の謝恩碑
5 野戸池とカンツリーの拡張
6 霞ヶ関カンツリーの創立と発智庄平
7 川越老人ホーム
8 埼玉育児院の創立
9 安比奈新田の瞽女橋
10 修験三島氏の墓碑
11 尾崎神社 ー懸仏・忠魂碑ー
12 笠幡の土地改良
13 笠幡の鏡神社
14 霞ヶ関小学校の変遷
15 埼玉県立盲学校
16 帝国火工(日本油脂)の成立
17 修復された古墳 -吉田の御伊勢塚ー
18 的場の法城寺
19 霞ヶ関駅と的場駅
20 的場の愛宕神社 -的場小学校跡と大野義信の筆塚ー
21 的場銀行の成立
22 霞ヶ関地区の変遷
23 霞ヶ関郷土会と名細郷土史勉強会
ひとくちメモ
剣道家朽原二覚の碑
笠幡の社倉
発智家文書
もっとも新しい庚申塔
芳地戸のふせぎ
大室源八の墓
牛塚古墳の物差
名細編
24 常楽寺の河越氏館跡
25 日枝神社と大広院
26 鯨井の馬頭観音
27 長福寺と北条綱重
28 旗本前田定良と青林寺
29 能満寺と八幡神社
30 名細地区小学校の沿革
31 かな文字の校章 -上戸小学校ー
32 小堤の金子家文書 -江戸初期の年貢割付状などー
33 犬竹郷と勢〆氏
34 鯨井藩の創設と戸田氏
35 鯨井の万葉歌碑
36 下小坂の永命寺 -宝篋印塔と本堂の彫刻ー
37 ダイダラボッチの荊橋
38 下小坂の大欅
39 田中コレクションと田中伝次郎氏
40 女性講中がたてた石仏
41 下広谷の中世館跡群
42 下小坂河岸の成立
43 入間川の渡し
44 明治四三年の大洪水
45 鯨井・下小坂の水車
46 加藤栄子氏宅の蔵骨器
47 明和の大一揆と川越藩
48 陸軍の演習と名細地区
49 名細地区の変遷
ひとくちメモ
鯨井のヒイラギ
鯨井の観音堂跡
鯨井の児ヶ池
上戸の虚無仏塚
犬竹の一升講
鯨井と下小坂の郷蔵
下小坂古墳群の発掘
吉田のくりから不動像
下小坂の北向き不動尊
下小坂の平野家文書
序文(霞ヶ関郷土史研究会長 冨田雅次)
はしがき(霞ヶ関の史誌編集委員長 岸敏夫)
祝いのことば(川越市長 川合喜一、川越市教育長 村田和夫、霞ヶ関公民館運営審議会会長・川越市市議会議員 小川芳雄)
推薦のことば(自治会連合会霞ヶ関支部長 島田登茂治)
第1章 古代からの推移
第1節 古墳時代
第2節 奈良、平安時代
第3節 鎌倉、室町時代
第4節 安土、桃山時代
第5節 江戸時代
第6節 明治、大正、昭和時代
第2章 行政区の推移
第1節 県の推移
第2節 郡村の推移
第3章 地名の起因
第1節 霞ヶ関村
第2節 的場村
第1項 的場村の推移
第2項 的場村の小字名
第3項 的場のめずらしい地名
第4項 的場村明細帳
第3節 笠幡村
第1項 笠幡村の推移
第2項 笠幡の小字名
第3章 笠幡のめずらしい地名
第4節 安比奈新田
第1項 安比奈新田の推移
第2項 安比奈新田の小字名
第3項 安比奈新田のめずらしい地名
第4項 安比奈新田の古文書と訳文
第4章 政治、教育、産業経済等の概況
第1節 政治
第1項 村長・議員等
1 埼玉県議会議員
2 入間郡議会議員
3 歴代村長
4 合併直前の三役・村議会議員
第2項 川越市との合併の経緯
1 川越市議会議員
2 霞ヶ関支所・出張所
3 霞ヶ関北出張所
第3項 自治会組織
1 歴代霞ヶ関支会長
2 霞ヶ関支会自治会長・副会長
3 霞ヶ関北支会自治会長・副会長
4 世帯・人口(男・女別)
第2節 教育
第1項 学校の変遷
1 小学校
2 中学校
3 県立高等学校
4 県立養護学校
5 私立学校
①秀明学園
②山口学院
③東京国際大学
6 保育園
7 幼稚園
第2項 小中学校の沿革
1 霞ヶ関小学校
2 霞ヶ関北小学校
3 霞ヶ関南小学校
4 霞ヶ関東小学校
5 霞ヶ関西小学校
6 川越西小学校
7 霞ヶ関中学校
8 霞ヶ関東中学校
9 霞ヶ関西中学校
10 川越西中学校
第3項 霞ヶ関公民館
1 公民館の沿革
2 館の設立
3 歴代館長
4 霞ヶ関公民館運営審議会委員名簿
第4項 霞ヶ関北公民館
第3節 産業
第1項 農業
1 専業別農業数
2 経営耕地規模別農家
3 農家数と人口
4 作物の類別収穫面積
5 作物収穫農家数・収穫面積・販売農家数
6 果樹栽培農家数と面積
7 家畜
8 養蚕
9 川越市霞ヶ関地区農業委員(歴代)
10 農業関連団体
第2項 工業
1 産業大分類別事業所
2 主要事業所
3 法人会役員名簿
第3項 商業
1 商業統計
2 商店会
第4節 経済
第1項 金融機関等
1 農協
2 銀行
3 郵便局
第5節 交通
第1項 鉄道・バス等
第2項 的場駅こぼればなし
第3項 道路
第4項 橋梁
第6節 治安
第1項 警察
第2項 消防
第7節 福祉
第1項 福祉施設
第2項 民生委員
第8節 環境
第1項 住宅団地
第2項 公園・運動場等
第3項 環境施設
第9節 衛生
第1項 病院・診療所等
第5章 霞ヶ関の史跡
第1節 神社仏閣等
第1項 神社
第2項 仏閣
第3項 的場八景
第2節 史跡等
第1項 筆塚
第2項 供養塔
第3項 記念碑
第4項 板碑一覧表
第5項 遺跡
第6章 民話と伝説
第1節 的場の伝説
第2節 笠幡の伝説
第3節 安比奈新田の伝説
第7章 霞ヶ関の年中行事
第1節 霞ヶ関地区の昔からの祭と行事
第2節 方言
第8章 霞ヶ関の歴史年表
附表
公共機関等の電話番号 霞ヶ関の史誌編集委員会
参考文献 地図
あとがき(霞ヶ関の史誌編集副委員長 矢部操)